ナラティブセラピーは、1980年代にマイケル・ホワイトとデイヴィッド・エプストンによって開発された心理療法の一つです。このアプローチにはさまざまな特徴があると思うのですが、私にとって特に印象に残っているのは「人が問題なのではない、問題が問題なのである」という在り方です。
私自身は心理支援の専門家ではなく、理系の大学教員をしています。そんな私が、あるきっかけでナラティブセラピーを学んでみたところ、学生との関わり方に大きな変化が生まれたことを実感しました。
この体験から感じているのは、ナラティブセラピーの考え方は、カウンセリングという専門領域だけでなく、職場でのチームワークや教育現場など、日常のさまざまな場面でも大いに助けになるのではないかということです。
大学教員の多くは、専門分野の知識があれば教壇に立つことができてしまうのですが、「教えること」や「学生たちと関わること」について専門的なトレーニングを受ける機会は、実はそれほど多くありません。ナラティブセラピーに出会う前の私も、「このままやっていけるだろうか」という不安を抱えることがよくありました。
たとえば、講義を休みがちな学生や、研究室での活動になかなか身が入らない学生がいると、当時の私は彼らを「問題のある学生」として捉えてしまいがちでした。どう接すれば良いのか分からず、寄り添うことの難しさを感じていたように思います。
ナラティブセラピーを学んで最も印象的だったのは、その技法や手法の具体的な「やり方(doing)」以上に、その根底にある「在り方(being)」を大切にする姿勢でした。そして私の「在り方」を変えるきっかけとなったのが、先ほどお話しした「人が問題なのではない、問題が問題なのである」という視点だったのかもしれません。
この考え方は、私の日々の態度を少しずつ変化させてきたように感じています。以前は「問題のある学生」という見方で止まってしまいがちだったのが、今では「学生を問題として見てしまうこと」自体に、なんとなく違和感を覚えるようになっています。そして代わりに、「学びを妨げている何かを、学生と一緒に探ってみること」に自然さを感じるようになってきました。
この「在り方」の変化は、学生とのやり取りにも影響を与えたようです。
まず、私自身の心に少し「余裕」が生まれたような気がします。「私の指導が足りない」「学生のやる気が足りない」といった、誰かを責めるような思考から離れて、「『研究がうまく進まない』という困った状況が、私たちの前にある」と捉え直してみる。すると、状況を冷静に見つめる心の余裕が少し生まれたように感じました。
そうすると、学生との関係性も自然と変わってきたようです。それまでは「指導する私 vs 指導される学生」という、どこか対立的な構図だったかもしれません。でも「私たち」というチームの前に「研究が進まない」という共通の課題があると考えると、構図は「私たち vs この厄介な問題」というものとして捉え直すことができます。「どうしてできないんだろう?」という問いが、「どうすればこの『壁』を一緒に乗り越えられるだろう?」という、未来に向けた問いに変わっていくような感覚でした。
そして個人的に最も大きな変化だと感じるのは、学生自身の「持ち味」がしっかりと見えるようになったことです。
「実験が苦手な学生」というレッテルを一度横に置いてみると、その向こうにある学生自身の姿がよりハッキリと見えてくることがあります。何度も失敗しながらも、諦めずに別の方法を試そうとしている粘り強さ。膨大なデータの中から、何かを見つけ出そうと真剣に向き合っている姿勢。こうしたものは、「問題」という見方に隠れて、見過ごしてしまっていた学生本来の姿だったのかもしれません。
「大変な状況でも、よく頑張っているね」「その視点は面白いかもしれない」。問題にただ振り回されるのではなく、それと格闘している姿を言葉にして伝えてみると、学生の表情がふっと和らぐ瞬間があります。まるで自分らしさを再発見したかのような表情を見せてくれます。そんな時、私たちは初めて、本当の意味で「一緒に取り組むチームメイト」になれたのかもと感じました。
「人が問題なのではない、問題が問題なのである」。この視点を少し意識してみることで、問題に立ち向かうための力が湧いてきて、より建設的な協働が生まれやすくなるかもしれません。そんな可能性を感じながら、これからも、私にとってのナラティブセラピーを「ふだんづかい」してみたいと思っています。